幽霊はなぜ裸じゃないのか?


幽霊という「現象」はある。もしないとしたら、古今東西のほとんどすべての言語の中に「霊魂」や「魂」にあたる名詞があることや、霊魂が物質化した結果として出現するとされる「幽霊」の目撃談が世界中で語られている事実を、どう合理的に説明すればよいのでしょう?

でも、こどもの頃からひとつの疑問があります。「裸の幽霊が現れないのはなぜだろう?」

人間は、肉体と霊魂がセットになって出来上がっている。肉体の命は有限だけれども霊魂は不滅だから、肉体が滅びても霊魂は、その肉体から抜け出して生きつづける。大方の民族に共通のこの仮説を受け入れれば、霊魂が肉体から離れた瞬間が「死」ということになりそうです。一説には、そのとき人間の体重は7グラムだか21グラムだか軽くなるそうです。そんなオーダーの計量なら、商店街のお肉屋さんにも朝飯前でしょうから、もしそれが事実だとしたら死の瞬間を特定するのは簡単・・・・・・脳死論議に科学的な決着が訪れる日もそう遠くはなさそうですね。ま、霊魂の目方の話はさておき、霊魂がほんとうに肉体から抜け出したのなら、やっぱり霊魂が衣服を身にまとって幽霊として出現してくるというのは不思議なことです。幽霊が着ている繊維は、いったいどこからやってきたのでしょう?

冒頭で私は「幽霊という現象はある」と書きましたが、それは文字通り「現象」はあるという意味で、上に書いたような理由から、幽霊現象の主体である霊魂は、少なくとも人間の外側には「実在しない」と考えています。一般に私たちは、外界から飛び込んできた光子を網膜で受け取り、その分量や強さを脳で解析・映像化し「見た」と理解するけれども、事前に脳の中に保存されていた情報が視覚回路に回りこんで、網膜を介したときと同じように「見た」と理解してしまうこともあります。夢、がそうです。この夢と同じように、幽霊現象も人間の脳の中で起こっている、と私は思います。百歩譲って霊魂も実在するのだとしても、それもやはり、脳の中に記録された情報であり、何グラムかの質量をもった自然界の物質だとはとうてい思えません。そう考えれば、故人か存命中の誰かしか幽霊になり得ないことは、私たちが過去のことは記憶しているのに未来の記憶を持っていないことと同じように、すんなりと理解できるような気がします。(知らないと思い込んでいるだけで本当は知ってるというケースを排除した上で)知らない人の幽霊を目撃したという例については、下のような仮説で説明がつかないわけでもないような気がします。

脳の活動が、電気信号(と情報伝達物質)を介して行われていることが知られています。事実、脳内に流れる電流の周波数を測定することで、その活動状態をある程度のぞき見ることができるようになりました。しかし残念なことに現在の科学では、脳の中を駆け巡っているはずの情報そのものを盗み取ることはできません。でも、脳の活動が電磁波となってその外側にもれているという事実は、その電磁波を解析する技術が進歩すれば、もっと簡単に言えば、脳放送を受信できるラジオなりテレビが完成すれば、だれもがいつでも簡単に幽霊を見る(聴く)ことができるようになるかもしれないということを予測しているのかもしれません(もしこんな機械が発明されたら、ちがう言語を使っている者同志や視覚障害聴覚障害をもっている方たちとのコミュニケーションが今よりもずっと容易になるでしょうし、完璧な嘘発見器にも応用できそうです)。もしかしたら、他人の記憶を共有できる受信機を生まれながらに持っている人間、相手と自分の脳の電磁波を同調させられる人間がいるのかもしれません。そうした人を私たちは、霊能者とか超能力者などと呼んでいるのかな。でももし、そのような特殊な能力が後天的に獲得できるようになったり、脳放送受信機が実際に開発されてしまったら大変です。鉛を仕込んだ帽子などをかぶって、自分の脳から電磁波が飛び出すのを阻止しなければなりません。さもないと、よこしまな自分の本性がばれてしまうからです。もっともそうなればそうなったで、優秀な技術者が現れて、公表したい情報を乗せた電磁波だけを外界に放出できる「ファイアーハット」を開発してくれるかもしれませんけど・・・・・・。

今朝の新聞でもまた、ウィニーに関する事件が報道されていました。北海道の某短大の入試データが漏洩してしまったという記事です。ひと足先に「電脳」の世界では、好まざる記憶の共有がはじまっちゃってるんだなぁ、などとぼんやり考えながら、この日記を書きました。

「ラシーヌ」 カリ

ラシーヌ VOL.1&VOL.2

ラシーヌ VOL.1&VOL.2

北関東にもようやく春がやってきました。

菜の花、桜、すみれ。風流気のない私は、そうした春の花々よりも、夜ふと開け放してみた窓の外から聞こえてくる音に、春の気配を感じたりします。遠くから流れてくる線路の軋み、巨人の選手がヒットを打つたびに上がる隣家の親子の歓声、古くなった街頭の蛍光灯が発するうなり、バイトから帰ってきた独り暮らしの学生さんがポストをあける音。そんな音そのものが春っぽいというよりも、そういう音が聞こえてくることが春っぽい、と思うのです。窓を閉め切っている寒い冬には、そういう音が我が家の周りにあることを忘れています。

こうなってくると、音楽のほうにも春の気配を求めたくなります。私の場合、マルチニークの吟遊詩人カリなんかの音がこの季節にぴったりです。同じカリブの音でも、キューバンほど晴れ渡らずレゲエほど暑くもない。そして、適度に乾いているけれども、心地よく湿っている。マルチニークの音楽、というか、カリの歌はなんとなく、ファジーな感じの春の雰囲気にしっくりくるのです。

雨の午後にジョニーを何曲か・・・・・

Lie to Me Wander This World Long Time Coming

ついさっき爽やかな南風に乗せてカリを推薦したばかりのところなんですが、午後の仕事部屋には、デビューしたてのジョニー・ラングのオランダでのライブが流れていたりします。きょうは朝から雨だし、こっちのほうがいいな。
1981年生まれだそうですから、今年で25歳。ってことは、上に紹介したアルバムのうち、最初の2枚を作ったときはまだ十代ですぜ、ご同輩! さすがに曲作りにまでは深くかかわっていないようですけど、妙に老成した説得力と、何よりそのブルーズ感。この若造、ただもんじゃあないっす。悔しいことに、ルックスまでいいときてるし、冴えない扁平顔の無能中年には十分にやってられない気分になっちゃうけど、「弱虫野郎はいつまでたっても負け犬なのさ」なんて説教された日にゃ、ハハハハハ、もう笑うっきゃないな。