国民投票法

昨日、与党が提出した国民投票法案が衆議院で可決し、参議院へと送られました。これで、この法案が成立するのは時間の問題、になりましたね。
日本国憲法では、第96条に「この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」とあるように、「改正できる」ことが定められているのに、肝心の国民投票のルールが施行後60年以上にわたって決められていなかったことは異常、というか、バカげた状態だったと言わなければなりません。その意味では、国民投票法ができることは喜ばしいことです。
ただし、問題点がないわけではない、とも思います。条文の中の「その過半数」を何の過半数とするか、という点です。
今法案では「有効投票の」過半数とされました。統一地方選の真っ只中、その投票率を見ると50%を切る選挙区が続出しています。そんな現状で、憲法改正が「有効投票の過半数」で決定されて良いのか、という批判が起こっても不思議ではありません。
これを「選挙人総数の過半数」とした場合、改正案の否決を狙う一部の人びとによって投票ボイコットがおこり、結果、多くの人びとの意見が葬られることになる。「有効投票の過半数」を支持する人たちの主張は、おおむねこのようなものです。
参政権は主権者の「権利」ですし、それを行使するかしないかは主権者個人の判断に委ねられています。投票しない自由もあるわけです。
しかし、国によっては、選挙に行くことを国民の「権利」であると同時に「義務」と捉えている国もあります。オーストラリアでは、投票しないと罰金が科せられます。これは、オーストラリア国外で生活するオーストラリア人も例外ではなく、もう10年以上前の話ですが、知人のあるオーストラリア人は、東京の駐日大使館まで出向いて投票をしていました。そこまで徹底させることに異論を唱える方も多いでしょうが、こと憲法改正につながる重要な決定にかかわる国民投票は、このモデルに準じたかたちで行っても良いのではないかと思います。
そもそも憲法は、「政府が行って良いこと」を定めるものです。逆説的に言えば、憲法に書かれていないことは、何人たりとも行ってはならない。そういうことが書かれているのが、憲法です。絶対君主が国家に君臨する政治形態にかわって法に基づいた統治を行うための不可侵の枠組みが、先人たちが命がけで獲得した、憲法という宝物です。その内容を書き換える仕組みを持つことは主権者にとって極めて大切です。時間の経過とともに「政府が行って良いこと」が変わっても、その内容を硬直的に不変な状態にしておくことは、憲法を軽視することにつながりかねません。憲法を絵に描いた餅にしておいてたはならないのです。だからこそ、そのルールと手順については、通常の選挙以上に、私たちは重要に捉えるべきだと考えます。
上に書いたように、投票に行かない自由を行使する人が50%近くもいる日本人には、オーストラリアの選挙法のような、「国民投票に行く義務」を課してもよかったと思います。また、「選挙は日曜日に」という常識にも、一考の価値はないでしょうか。選挙を平日に実施している国は多いですよ。その日は、学校も官公庁も会社も原則休み。投票は「余暇の時間の中で主権者の自由意志にもとづいて行われる」行為ではなく、一票を投じることが原則。このように国民投票を平日に行えば、有権者の意識も変わるように思われます。さらに、現在のように、投票所に出向くことが原則とされる選挙形態も、国民投票では再考したほうが良いと思います。体の不自由だったり仕事などの理由でどうしても投票所に足を運べない人びと、国外で生活する人びとが意思表示できるために、期日前投票だけでなく、郵便やインターネットなどを利用した、より幅広い方法での投票を受け付けて良いのではないでしょうか。
ともかく、憲法の条文を書き換えるということは、とてつもなく重大な問題です。ですから考えられる範囲で、あらゆる手段・方法・手続きを検討して、100%の主権者の意思が反映される中で行われてほしい、通常の選挙の延長線上では行われてほしくない、と切に願います。
憲法9条を書き換えたい。現在の与党の人びとがそのような思惑でこの法案を提出したのだとしても、それを決定するのは彼らではなく、私たちなのです。そのことを肝に銘じて、私は国民投票法の成立を支持します。憲法は国民のもの。どのような憲法を持つかは、国民が決める。あなたが決める。私が決める。その方法を決めておくことは当然。今回の法案には問題点があるとしても、です。