日本最後の空襲

明日は、終戦記念日、ですね。この日は言うまでもなく、天皇の肉声(玉音)でいわゆる「終戦の詔」が放送された日なのですが、日本が連合国側にポツダム宣言の受諾を通達したのは10日ですし、また、米艦船ミズーリ上でこれに調印したのが9月2日ですから、もしかしたら、純粋に歴史的な意味では、8月15日は終戦記念日にはふさわしくないのかもしれません。こんなことにこだわるのは、61年前のその日、玉音放送を聞くどころではなかった人びとが日本にはたくさんいたからです。
玉音放送(終戦の詔)
1945年8月14日深夜から15日未明にかけて、日本のいくつかの地方都市をターゲットとした、いわゆる最後の空襲が行われました。その中の一つが、埼玉県の熊谷市です。熊谷市は市街地の75%(118万平方㍍)を消失し、266名の市民が死亡、負傷者3000余、被災者は15,000人に及びました。空襲の目標になった「星川」には灼熱地獄から逃れようとした市民が多数飛び込みましたが、ここを火災旋風が襲い、一夜明けた川の中には、黒焦げになった100体以上の遺体が折り重なっていたそうです。
迎え盆のきのう、私は熊谷市内の菩提寺に行きました。このお寺は空襲当時、市街地にあり、はげしい爆撃に見舞われました。戦後の復興事業による区画整理にともなって郊外に移転した後にも、いくつかの墓石には空襲の爪あとが残されています。

この空襲のためにマリアナを飛び立った82機のB-29硫黄島を離陸した戦闘機の乗組員が日本のポツダム宣言受諾を知らなかったとしても、命令を下した人たちはおそらく知っていたのではないかと、今でも市民の多くは考えています。
送り盆の16日、熊谷市の星川では、空襲で犠牲になった人びとの冥福を祈って、慰霊祭と灯籠流しが行われます。