それでは、また来週!

きょう、母と伯母の法事のために菩提寺に行ってきました。我が家はルーツが越後ということもあり、代々浄土真宗西本願寺派門徒です。とは言え、私自身は、浄土も地獄も阿弥陀仏も輪廻も信じず、念仏や法名や墓をありがたく感じない、バチアタリな信徒なのですが・・・・・・。
ただ、本願寺第8世蓮如上人が書き残したいわゆる『御文(おふみ)』の中には、いくらか真理めいたものを感じています。中でも、その16通目にあたる『白骨の章』は、なかなか心に沁みる感じがあります。


夫(それ)、人間の浮生(ふしょう)なる相を、つらつら観ずるに。おほよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形體(ぎょうたい)をたもつべきや、我やさき、人やさき、今日ともしらず明日ともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたへぬれば、紅顔むなしく変じて、桃季(とうり)のよそほひを失ひぬるときは、六親眷屬(ろくけんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半(よわ)の煙(けぶり)となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば人間のはかなきことは、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかひなれば、たれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
最終段の「念仏を唱えよ」という箇所以外は、一刻も休まず変わりつづけるこの世の本質を、見事に言い得ていると思います。まさに、諸行無常、"All Things Must Pass"であります。
来週の水曜日は、阪神淡路大震災の12回目の祈念日です。この災害で亡くなられた6000余の人たちは、前の晩に床につくとき、その翌朝、自分がその生涯を終えることなど夢にも思わなかったはずです。ま、知っていれば、安らかな心で眠りにつくことなどできなかったでしょうが・・・・・・・・いずれにしても、その晩に見たテレビの司会者が満面の笑みで「また来週!」なんて言ったのを見たとしても、それが保証でもなんでもなかったことは確かです。
震災の犠牲者のみなさん、そして母と伯母の生涯に思いを致しながら、きょうはこんな日記を書いてみました。あなかしこ、あなかしこ。