フィラデルフィア

アカデミー賞を4部門も受賞した1993年の名作。もう解説の必要もないほど有名な作品です・・・・・・先日ひさしぶりに、CATVで観ました。たしかに良い映画だとは思いますが、自分の中では少なくとも「10本の指に入る」ほどの映画ではありません。

ただ、あらためて考えさせられたことは、いくつかありました。

この映画は、うわっつら的には「エイズに対する偏見」みたいなものがテーマになっているように見えますが、実は、本当のテーマは「自分たちの社会がフリーク(≒ばけもの)とどう向き合っているのか」だと思います。このことは、裁判の場面に登場する2人のエイズ患者に対する登場人物の(同時に観客自身の)反応の違いを観察すれば明らかです。トム・ハンクス演じる同性愛男性に反発を覚える人も、出産時の輸血でHIVに感染した女性には同情的かもしれません。だとしたら、エイズ患者かどうかは主たる問題ではないということになります。

中学校の英語のテストで、"Are you a boy or a girl?"の問いに答えよ、というような問題が出ました。ひねくれ者の私は、"You are crazy."と回答しました。当然バツをもらったのですが、「そんなわかりきった質問をする奴はいねぇよ、バ〜カ」という思いは変わりませんでした。でも今ここで、あなたに同じ質問をしたいと思います。

「あなたは男ですか、それとも女ですか?」

おおかたの方が即座にお答えになったと思います。では、そう答えたになった理由を、下の7つのポイントで再確認してみてください。

  1. 生殖器の外観
  2. 体内にある生殖器
  3. 性腺
  4. 染色体
  5. 分泌されるホルモンの種類と量
  6. 社会的に割り当てられた性別
  7. 性的アイデンティティ

これは、アメリカで出版されたある本(書名や著作者名は忘れてしまいました)に、「性別を判断するときに欠かせない要素」として紹介されていたものです。世界中どこの国でも、男女の区別はたいてい「1」だけで行われます。産院の廊下でわが子が生まれてくるのを待っている父親に、看護婦さんが「おめでとうございます、元気な男の子ですよ」などと告げる、よくあるドラマのシーンを思い出してみても、人間の性別が「1」だけで決定されることがわかります。この世に生を受けた瞬間から人間は、男または女という、「6)社会的に割り当てられた性別」に区分され、死ぬまでずっとそれを背負って生きて行くことになるわけです。具体的には、名前、衣服、言葉遣い、トイレなど公共施設の使用区分などです。その割り当てが「7)本人が自身の性をどう認識している」性と一致していない場合でも、少なくとも当人が成人に達するまで(「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」平成15年7月15日施行)は問題にされません。

「でも、ま、染色体を調べれば、少なくとも生物学上の性別ははっきりするんじゃないの」とおっしゃる方も多いと思います。

中学校の理科の時間に教わったように、人間には、「X染色体」と「Y染色体」からなる、23対の染色体があります。うち22対は「通常染色体」とよばれ、残りの1対が「性染色体」と呼ばれます。男女の別は、この「性染色体」の差異から生じます。性染色体が「XとX」の場合は女性、「XとY」の場合は男性となります。しかし、すべての人間が、そのどちらかの染色体を持っているわけではありません。数百人から数千人に一人の割合で、「Xのみ」、「XXX」、「XXY」、「XXXY」、「XXXXY」、「XYY」などのほか、X染色体またはY染色体が部分的に壊れていたり、壊れている染色体が正常な染色体に加わってしまっている人が生まれてきます。つまり、多くの人が決定的と考えている染色体のレベルでも、実は、性別は意外に多様なようなのです。

私たちが属する社会集団は、ほとんどが典型的な「男」と「女」で構成されています。しかし、割合は少ないけれども、例外の人たちがいます。この映画のテーマは、そうした人々を自分は、受け入れるべきなのか、受け入れているのか、または、受け入れる覚悟はあるのか、ということだと思います。

性別だけではありません、先天的な差異をもって生まれてきた、自分たちの大部分の範疇からはずれる人間たちを、非常に差別的な表現ですが、私たちは「フリーク」として扱ってきました。先天的な差異ばかりではなく、言語・宗教・生活習慣・心情・良心などが違う少数派の人たちも含めた上で、「お前はフリークを受け入れられるのか?」という問いかけを、この映画はしているように思えます。

正直な話、私はホモセクシャルには嫌悪感を覚えます。でも、彼らは、自分が属する集団の中では少なくとも無害だと思いますから、受け入れるべきだと思っています。とは言え、自分の家族や職場などの至近距離の中にそのような人がいても「平気」かと言われれば、まったく自信はありません。同じように、自分と違う部分を持っている人をいつでも容認できるという自信もありません。つくづく自分は、偏狭な人間です。でも、今いる社会を一歩飛び出せば、自分もフリークの側にまわることは知っています。